第一章 ~0歳から7歳~

人生の話

まずは生い立ちから。

山の中にポツンと一件お家がある、今で言う「限界集落」に三男坊として生まれた主人公。

母は女の子が欲しかったそうだが、男が三連発だったため私で諦めたんだそうな。

それを知ってか知らずか、自分が一番両親と話をするし家事や親戚付き合いもマメにやっている。

なので「再婚相手は親族と良好な関係を築けている、金銭感覚が近しい人」と心に決めている。

話を戻そう。

最も古い記憶は?と問われると「くま」という土佐犬を飼っていて背中に乗って遊んでたとか

郵便屋さんが「こどもが屋根に登ってますよ」というトンでもない行動力により(じいさんばあさんのガバガバ子守)30余年前の当時では異例の1歳半で保育園に預けられたとか

悪事を働くと逆さ吊りにされていたとか(当時はどこの家庭でも普通に行われていると本気で思った)

片道3キロの通学路を毎朝じいさん(戦争帰還者)からトラックorバイクで追われて走らされていたとか

まあ、とにかく今では考えられないブッ飛んだ家庭で育ったのである。

どケチで頑固な祖父、やかましく更に頑固な祖母

そんな所に嫁いだ母は、平日は仕事、土日は祖父のミカン畑を手伝いながら男三人を育て上げた本当に立派な方だ。

ストレスにより事あるごとに胃潰瘍(胃に穴が開く症状)に悩まされながら、それでも必死に頑張った母には一生頭が上がらない。

父はそんな最中にも釣りやゴルフと根っからの遊び人だったらしく、母はほとほと愛想を尽かしていたそうな。

しかし、そんな父とも大人になって昔話をする機会が多くなり、彼は

「あの頃の俺は仕事に遊びに精を出しすぎた。平日の仕事が終わってからも、町に人を呼び込むために

農家さんのところへ仕事を学びに行ったり、いろんな勉強をしていた」

「あのスーパー母ちゃんは、このスーパー父ちゃんが作ったんだ」

と、どこまでが本当で、どこまでが美化された話か分からんが、そう話していた。

僕はというと、ひとことで表すと「クソガキ」という言葉が相応しい幼少期。

「保育園でみんなが外で遊んでいる最中に友達の弁当を盗み食い」

「登下校中、父の上司の愛車(チェイサー)に投石」

「飼い犬のエサを横取り」

など、本当にどうしようもないガキンチョだったのである。

小学校の頃の恩師と社会人時代に、ひょんな事から仕事でご一緒した際には

「まさか、お前が大学に行くなんて夢にも思わなかったよ」と、一言。

当時はまだ、体罰がバリバリ許されていた時代。

落ち着きのない遊び盛りの僕に目を光らせるため、先生は

「お前は一年間ずっとここに座れ」

と、教壇の目の前に僕を固定。

黒板の指示棒に使っていた竹で小坊主を小突くためにも、その席は一役買っていた。

その節は大変ご迷惑をおかけしました。

小さい頃は母はさることながら、父にもベッタリだったのを朧げに記憶している。

特に小学校低学年までは、よく父に寄り添って寝ていたのを覚えている。

長年勤めた団体を退職し、ブリスベン/ゴールドコーストに留学すると両親に伝えてから

明らかに父は僕に優しくなった。

なんでも話せる年齢になったから、友達のような関係に近いなと感じる

この歳になると、同級生のなかで「両親ともにご存命である」家庭が少なくなっていることに気付く。

だから、自分はかなり恵まれているのだと、つくづく感じているのだ。

親孝行は、親が生きているうちにしか出来ない。

僕は「自分が一番両親に心配や迷惑をかけた」と感じることが多い。

幼少期もそう、デキ婚もそう、仕事を辞めて海外に行ったのもそう。

だから、本当は自分が親の面倒を見るべきだし、そうしたいとも本気で思う。

ゆえに今、親元を再び離れて大阪で一人暮らしをしていて

「果たしてこれでいいのだろうか」

という想いが強い。

以前の職場に戻れば、県内に残って両親の近くに居れる。

県内の人と再婚して、両親に幸せな姿を見せたい。

その目的から遠回りして、離れていっている気がしてならない。

勤めている会社に対して誠実ではないかもしれないが、こんな事をしてて良いのだろうかと思う。

時間とは、現実とは、本当に非情なものである。

嘆いても仕方が無いので「これからどう生きるか」を考えないといけない。

ブログを始めたのも、幾ばくかの副収入を得るがための挑戦なのだ。

まったく主旨とズレた内容になってしまい大変申し訳ございません。

続きは、また次回。

では、また。

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